《外需か内需か》
2009年9月16日と言えば何の日かもうお分かりだろう。歴史的政権交代の日として、新たな政治の歴史を刻み始めた記念すべき年として、今後長く 後世に語り継がれることになろう。がしかし、これは現在においては希望的観測にかなり近くなりつつあるような気がするのは何故だろう。
あれから1ヶ月間様々な政策が打ち出され、実に目を見張るものがあったのは事実であり、今後も充分期待は持てるといえよう。ここで再認識させられた のは、やはり過去の物差しで物事を見てはいけないということである。今は、はっきり言って、過去は過去ときっぱり決別することがきちんと出来るかどうかに かかっている。未来のために痛みを享受する勇気こそが今一番大切なのである。
しかし、現実はそう甘くはない。既成の組織の考え方を変えるにはそれ相当の覚悟が要る。覚悟だけでは改革は一向に進まない。自分自身が傷つくことを避けて、他人ばかりに傷を負わせたのでは誰が納得するだろう。誰も納得しない。1ヶ月経ってみてさてどうだろう。
まだまだ1ヶ月という見方もある。今は一応それを受け止めることにしたとして、どうみたって今の政権党に自己犠牲という姿はまだ見えてこない。改革に向けての気迫が伝わってこないのは何故だろう。それは私だけの杞憂なのかどうか。
何かを行うにはやはりお金が必要になってくる。お金が無ければ何かをやりたくてもやれない現実がある。お金を生み出すためには、一生懸命仕事をして 稼がなくてはならない。一生懸命稼いで、稼いだお金が出来て何かをやれるのである。稼いだらきちんとお金を使う。これも大切である。お金を使ってまた稼 ぐ。稼ぐ場所は何処に見つけたらよいのか。稼ぐ場所は外にも内にもある。けっして、外だけでも内だけでもない。
いわゆる外需か内需かの二者択一では決してないはずである。
《見えるものと見えないもの》
久々に昔読んだフランスの思想家メルロ・ポンティの本をふと思い出した。確か表題には「見えるものと見えないもの」とあったと思うが、もし記憶違いであったとすればご容赦いただきたい。
最近年齢のせいか、視力が衰えてきた。いわゆる老眼という奴である。小さな文字が昔より距離を置かないとぼやけて見えにくいのである。やはり不便を 感じるときがあるのは事実。かといって、加齢に伴う自然の摂理と受け止めてしまえば何のことは無い。なんとなれば、視力を補う補助具は実に様々なものがあ るし、いざとなれば手術という道だってある。それよりもだ、見えていると思ったものが、実は見えていなかったということのほうが実に怖い。
昔学生に「見えるものと見えないもの」について話をしたことがある。その話はこうだ。「私たちは、視野に入って来るもの全てが見えているわけではな い、見えているのはそのほんの一部に過ぎない」と。「見えるためには、実は見ようとしないと見えないのだ」と。例として、通学路のバスの窓から目に入って くるものを幾つか挙げて、学生達に見たことがあるかどうか聞いたりして確かめてみたことがある。視覚的には見えているはずのものが、実は見えていなかった ことに気付かされたものである。何故見えていないのか。
答えは実に簡単なのである。見ようとして意識してみなければ見えないということ。人間は、五感を通して入ってくる多くの情報を意識というフィルター をとおして感じ取ったものについてだけ、知覚できるようになっているのである。今何故こういう話を持ち出したかというと、この意識というフィルターは、人 間の力によって鍛えられもするし、退化もさせられるのである。したがって、このフィルターをもっと鍛えていけば、いろいろなものが見えてくるはずである。 未来は実に明るい。しかし、意識を鍛え続けていくのはそうたやすくは無い。意識の意識が必要になる。意識を気付かせてくれる別の意識が。
ある人がこう言っていたのをふと思い出した。「見えるものは見えるし、見えないものは見えないのよ」。実に奥が深い。
2009.10.15